【孤独の歌】自作の歌詞とその背景を綴る第18話〜友達でいさせてくれないか

誰だって心の同じところで泣いている

この歌も、ライブの最後の曲やアンコールに
持ってくることが多い歌です。

というより、そこにしか当てはめられない歌になりました。

この歌はボブ・ディランのAll I Really Want To Doの
歌詞の書き方を真似して、
その歌と同じように、

「友達」

へ向けた思いを綴っています。

ですが、実際は友達へではなく
自分自身へ向けて書いています。

少しだけ考え方が大人になってきて、
少しだけ前へ進んだ私が、
そうなる以前の自分に向けて。

この歌の主人公は、
それを語る自分自身もまだまだ青いまま、
なんとか一皮剥けようとしてもがいています。
誰かに生きようよと伝えたい、
そう伝えられるようになりたいがために。

書いた当時は、この青さで人に何が言えるのか、
自分に向けて語っているだけじゃないかと考えてしまい、
あまりライブでは歌っていませんでした。
今ならば、偉そうに語れるとかそういうことではなく。

この当時はわかっていなかったことなのですが、
過去の自分に語りかけることは、作品を作ったり、
何か人に伝えたりする時に、とても効果的なのです。

自分の中で完結する自己満足な
作り方のように思われがちですが、

作品の幅を広げようとして、

わかりもしないことを語る胡散臭さ
のほうがよっぽど問題です。

自分にわかること、
自分が経験してきたことだからこそ、
他人に伝わるのです。

その当時優先して歌っていた、
毎日疲れただの
寂しい苦しいだの、
誰ともわかりあえやしないだのと
自分語りに終始していた歌よりは、
遥かに価値があったはずです。

しかし、そこを見ていない私は、例に漏れず、
この歌もセットリストから外していました。
いずれにせよ、自分のことだけ話したい子供のままで、
歌えるような歌ではなかったのです。

この歌をライブのセットリストに組み込めるようになるのは、

まだしばらく先のことです。

人を信じるどころか、
友人とのつながりにすら疑心暗鬼になりながら、

「友達でいさせてくれないか」

というストレートな言葉を
ステージの上からお客さん相手に歌うには、
まだまだ成長が必要だったということです。


一つだけ、当時の私が信じていたことは、

誰もが心の同じ部分で涙を流しているということ。

考えたら当たり前なのですが、

それを信じながら、
それでも人は信じれず。

書いた歌の一つが、このタイトルでした。

友達でいさせてくれないか

与えられた場所で君は長いこと考え続けている
例えば君自身が何かを失ってしまうんじゃないかとか
幸せになるにはまだ苦労が足りないんじゃないかとか
その孤独が君を深く傷つけてしまうんじゃないかとか

悩めば悩むほど辛くなっていって
ああどっちみちなるようにしかならないと
急いで決めつけたり

君が君の知らないところで何を言われようとも
君がそれに気がついて大事なことを見逃してしまう時
僕を君の友達でいさせてくれないか

君のその笑顔がどこかからの借り物だと思うようになったり
そのことが君を落ち込ませたり または困惑させたり
誰かの不親切な一言に自信をなくしてしまったりして
やがて他人との間に常に壁を作る癖がついて

もう新しい仲間が作れなくなり
信じるとかいうことを綺麗事だと
片付ければ格好もつき

そして心の奥のほうで昔を思い出して
ますます潔癖になっていく過去へ走り去ろうとする時
僕を君の友達でいさせてくれないか

気持ちを伝えようとする時 出てくる言葉はいつも何かの引用で
それは君の本当に言いたいことからはかけ離れていて
築き上げきた嘘は 今にも崩れそうだとしても
ずっと嫌っていたごまかされてきた毎日に助けられていたりして

とてもひどい状態だと知っていながら
現状を維持していないとどうしようもなく
不安で仕方なく

今まで通りで構わないと諦めてしまって
表面的な信頼関係の中で涙をこらえている時こそ
僕を君の友達でいさせてくれないか