無理に周りに合わせる必要はない
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「お母さん!行かないで〜!」
初めて母に幼稚園に連れていかれた日。
車を降りて見渡すと、
他にもそれぞれ
送られてきていた子供たちが、
「お母さん、置いてかないで!」
「一緒に帰る〜!」
と泣いていました。
もちろん永遠に置いていかれるわけではなく、
園が終わったらまたお迎えが来るわけですが、
みんな親と離れ離れになるのが寂しいんですよね。
まあそれは普通のことなんですけど、
私はそれを見ながら、
泣くほどには寂しいと感じていなかったのに、
周りのみんなの真似をして、
「お母さ〜ん!」
と、母親に抱きつきました。
嘘泣きをしたのです。
今にして思えば、
あれが私の悪い部分でした。
寂しいと強く思わなかったことではなく、
周りに合わせてしまったことです。
泣きたくなければ
泣く必要はないのですから。
自分を殺すことが正しい生き方ではない
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そんなふうに周りに合わせて笑っていただけの
幼稚園から小学校までの日々。
ほとんど記憶がありません。
断片的に印象的なことを覚えているだけです。
小学6年の時、私だけクラスのみんなと
体育館に行くことを拒否して、
一緒に行動をしないことを選んだ瞬間、
それはとても怖いことだったけれど、
初めて本当の自分を知れた気がしました。
そしてそれが思った以上に、
周りから悪く言われるということも。
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高校生になってからは
特に人と関わらなくなり、
学校が終わるとまっすぐに家へ帰り、
部屋にこもる日々が続きました。
時々遊びに誘われたりすることがあっても、
そのほとんどの場所・場面が、
私の居場所ではありませんでした。
そこに自分の存在価値を見出せなかったのです。
周囲から逸れたり、
浮いてしまうことは、
別に嫌ではありませんでした。
「俺はお前らとは違う」
と、そう思えたからです。
どちらにせよ、当時この感情がなければ
私は生きてこれなかったです。
俺はお前らと違うんだとか、
そういうの大事です。
世界は平等ではないので。
特にその頃は、そんな想いに頼るしか
ありませんでした。
ここにいてもなんの意味もない。
私の心はいつもざわついていましたが、
それでも
「普通に生きなさい」
と育てられてきたので、
無意識にその枠の中へ自分を
閉じ込めようと必死だったのです。
できもしないのに。
枠からはみ出すと不幸?
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そんなこもりがちな高校時代。
私が興味があったのは、芸術的なこと、
自分を表現することでした。
その手段の一つとして、
何度か漫画を描いてみたことはありました。
新人賞にも送りました。
最終選考に残るくらいまでは行きましたが、
賞をもらえるような作品ではありませんでした。
俳優のオーディションに
受かったこともありました。
けれど、レッスンには通いませんでした。
歌は何度レコード会社に送っても、
落選しました。
この時点でわかると思いますが、
「普通に生きる」というのは、
就職してサラリーマンになり、
そこそこの年齢で結婚し、親になる。
私はそういったステレオタイプの
家庭を作ることを
特に望まれた時代の子供でしたが、
この私の行動は、
その「普通に生きよう」とする人間の
やることではないですよね。
それは東京で社会人として暮らし始めても、
一切変わりませんでした。
表面上だけ「普通」を装って
騙し騙しなんとか生活してきただけです。
東京に飛び出してきて、
「夢を追う自分」の姿に依存して行う
ミュージシャン活動は、
結果的に私の心のバランスを
取り続けてくれていました。
家族の期待に応えるための人生ではない
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祖父の葬式に集まった親戚に、
聞こえよがしに
「あんな歌じゃ成功しないよ」
と言われたのを今でもはっきり覚えています。
その数年後に亡くなった祖母には
「お前がテレビに出てくるのを
楽しみにしているんだよ」
そう言われたこともありました。
歌を歌えば歌うほど、
夢にこだわればこだわるほど
人に何も返せない
それどころか失っていくだけ
そんな自分への不信感ばかりが
大きくなっていく。
それは40歳を過ぎてすら
愛する人を守る器量もないことを
思い知ったことで
限界を迎えました。
とうとう自信を失ってしまったのです。
あるはずだった空っぽの自信を。
もし「普通」に生きてこれたならば、
それを守れたはずだと。
自分の人生を否定する寸前でした。
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絵を始めたのは、そのあとです。
そんな中でも私はアーティストでありたいと望み、
ならば歌だけにこだわるのではなく、
なんでも自分にできることはやろう
ようやくそう思い立ち、始めたことなのです。
「普通」という重く冷たい鎖
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今更ですが、「普通に生きる」
ということができないことは
もちろん昔からわかっていたことです。
その時も、今にも派遣先の工場を
クビになりそうでした。
まともには生きていけないから、
そうやって今までも
職を転々としてきたのです。
それが40歳になっても相変わらずなのですから、
「就職して安定を望む」
という選択肢など
そもそもあるはずがないわけです。
自分が得意なことを活かしていく他、
今後生きていく方法はないことを、
ますます強く感じていました。
だから私は、前へ踏み出しました。
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振り返れば、背面は崖です。
生まれてきて良かったと親に感謝するために
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やがて絵の世界に入ったことで
自分を少し取り戻すことができました。
古い知り合いに買ってもらったことから始まり、
公募展受賞、海外の博物館寄贈、
個展販売、作画依頼などの画家活動を経て、
それをもっともっと大きくしていくために、
本当に本当の自分自身であるように、
私が私であるように
そんな人生を得るべく努力を続けています。
今では個展で絵を売ることも
できるようになりました。
「まわりに合わせる」
のではなく、
あるべき本当の自分を見つけ、高めて、
自分の思う「素晴らしい人生」を得て、
「生まれてきて良かった」
「ありがとう」
そう、心から言えるようになることが
親孝行なのではないかと私は信じています。
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