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幼少時の記憶が断片化した、裸の王様
私は小学6年のある時期までの記憶が、
断片的にしかありません。
もちろんその後のことだって
何もかも詳細に覚えているわけでは
ありません。
「生きていた」
という感覚がないというというか、
自分自身に対する印象が薄すぎるのです。
思い出せる記憶のひとつが
幼稚園のお遊戯会で
裸の王様の王様役に選ばれたことです。
「バカには見えない服」を着た裸の王様。
先生に指名されたと思います。
ただ、本番のこととかは、
まるっきり覚えていません。
母親によれば
ちゃんと台詞を言っていたそうです。
写真も残っているから、
舞台にも立ったのでしょう。
幼稚園や学校ではみんなで仲良くしなきゃ。
近所の子供達にも嫌われちゃいけない。
みんなで一緒にいなきゃ。
自分を抑えなきゃ。
そうしないと間違いだという思い。
ひとりになると馬鹿にされるという不安。
仲間外れにされたくないという気持ち。
常にそういう退屈な感情に
支配されていたことは
嫌になるくらい、覚えています。
記憶が欠けているのに、
そういう感情は覚えているのです。
これは今では家族の笑い話ですが、
幼少時に車で出かけた家族旅行の途中、
山道で大渋滞になったことがあったらしく、
私は耐えきれずに
勝手に車を降りたそうです。
歩いて帰る!と。
そして進まない家族の車を置いて
さっさと先に行ったそうです。
そんな子供が今思えばどうやって
周りに合わせられるというのでしょう。
みんな仲良く手を繋ぎましょう。
本気でそう思う人もいれば、
「いじめられたくないから
仕方なく」手を繋ぐ人も多数います。
記憶がしっかりし出したのは、
集団行動から抜け出した
小学校6年生くらいから。
ただ盲目に周りに合わせようとする
自我の無さこそ、
それまでの私が身につけていた
「馬鹿には見えない服」
だったのかもしれません。
座右の銘「負けたと思えばもう負けだ」
小学校を卒業する際に、
担任の先生がみんなにそれぞれ
送る言葉を書いて配った色紙。
私に向けて書いて頂いた言葉が
「負けたと思えばもう負けだ」
でした。
運動会の50m走で転んだ同級生が
気になって、走るのをやめて
立ち止まるような子供でした。
勝ち負けに執着しない性格で、
それでいいのかと心配されることが
多かったのです。
ある程度頑張って、
勝てないならいいや。
と、放棄してしまう。
だから最初は、
なんで勝たなきゃならないんだ
負けってなんだ
誰が人の勝ち負けを決めるんだ、と。
勝つとか負けるとか
その言葉自体が嫌いでした。
ですがこれは、良いほうに転がれば
穏やかな性格ということで
済むのでしょうが、
悪いほうに転がると
人生負けっぱなしです。
とにかくそれが信念になっていたので、
実家の目立つ場所に母が飾った
その色紙を見るのも、
いい気分ではありませんでした。
けれど結局、自分の辿ってきた道、
その失敗を振り返ると、
全てにおいて、その言葉が
当てはまることに
私はようやく気づいたのです。
言い尽くされた言葉ですが、
闘う相手は、
道端で睨みつけてきた他人ではなく、
自分を見下すつまらない奴ではなく、
自分より成功している誰かさんではなく、
自分自身であり、
その闘いには、
絶対に勝たなければならないのです。
喧嘩で負けて、
血だらけで泣きべそをかいていても、
自分自身にだけは、
勝たなければなりません。
先生はきっとそのことを
伝えたかったのだと思います。
「負けたと思えばもう負けだ」
今では座右の銘のひとつとなりました。
霜焼けおてての愛の詩人
私の故郷は雪国です。
今でこそ雪が少なくなりましたが、
私が小さい頃はたくさん
降り積もっていました。
大人ならば、そこから屋根に
登れるくらいに。
それだけの雪が降るわけですから、
冬はとても寒く、
冷えた私の手はすぐに霜焼けになり
赤く膨らんでしまうのでした。
中学生になる頃には、
父親の持っていたフォークギターを弾いて
歌うようになっていて、
覚えたばかりの3つのコードでも
自作曲を作れることを学びます。
すぐに私は自分で綴った詩に
コードを当てはめるようになりました。
そうやってたくさん歌を作りました。
教室でもよくノートに詩を書いていて、
それを読んだ担当の先生が
私につけたあだ名が、
「霜焼けおてての愛の詩人」
だったのです。
恋愛の詩もよく書いていましたから。
もちろん、まだ中学生ですから、
経験からばかりではなく
どこかで聞いてきたような言葉を並べて
夢や妄想などから
描いたものもありました。
色々と吸収し身につけていく
時期だったのだと思います。
あとは、好きな歌手の歌詞を
真似しようとしてみたり。
私の描く絵の中には
今でもそんな詩人が照れながら
潜んでいるかもしれませんね。
そのヒリヒリする赤く腫れた手を
さすりながら。
嫌われ者の高校生時代
高校ではもう、学校が終わると、
ほとんど真っ直ぐ家に帰っていました。
周りが「青春」と呼ぶ10代の時期が、
私にはとても退屈でした。
早く東京に行きたい。
そればかり考えていました。
「輪」に入ることを
12歳で拒否してしまったわけですから、
ステレオタイプの学生生活など、
待っているはずがありませんよね。
田舎の人間は、
輪からはずれる人間に対して
都会では考えられない仕打ちをします。
それを学校に置き換えるだけです。
学校は社会の縮図です。
相当クラスメイトからは
疎まれていたと思います。
付き合いの悪い奴
「団体行動」をしない奴
だいたい何を言われるか想像つきますよね。
優しい人なら、
「馬鹿だな。
なんでうまくあわせないんだろうか。」
でしょうが、
私からしたら
「楽しくもないのに
なぜ合わせなければならないのか。」
こんな感じです。
これは今でもそうです。
これを読んであなたも
私を嫌うかもしれませんね。
私が卒業アルバムをめくって懐かしんだり、
同窓会に行ったりする人間ではないことは、
ここでわかったはずですから。
とにかく、
早く3年間が終わってくれと
そればかり考えていた学生生活でした。
その間、オリジナル曲を
オーディションに送る。
漫画を描き、賞に出す。
俳優のオーディションを受ける。
それから、小説を書いてみたり。
創作することが好きで、
いろいろと手を出しながら、
芸術的なことを勉強していました。
けれど何を真剣にやりたいのか、
自分でもはっきりしていませんでした。
ただ今思えば、自分の世界は
しっかり確立していたのです。
何でどうとかではなく、
根本的な世界観が。
これは私の大きな財産になりました。
意味のないことなどないという証拠です。
そしてようやく、そこへ放り込まれて
3度目の冬が終わり、
似たような考えの友人と、
この3年間は忍耐力をつけるためのもの
(当時はそう思うしかなかった)
と語っていた退屈な高校生活は
終わりました。
やっと迎えた卒業式。
涙など出るはずもなく、
私の心はこの田舎を出ていけるという
喜びでいっぱいでした。
play a song for me〜Mr.Tambourine Manになりたかった青年
Hey、Mr.Tambourine Man
Play a Song for Me
ヘイ、タンバリンマン、
僕のために一曲歌ってよ
これはボブ・ディランの歌です。
ノーベル平和賞までもらってしまった
アメリカの大物シンガーです。
そんなディランが初期に
書いた歌のひとつが、
このMr.Tambourine Manです。
感受性の塊のような若者が、
酔いながら、
旅に憧れ、
都会を彷徨っている
そんな歌だと私は思っています。
上京後の東京駅で買った海賊版のCD。
不安と期待が入り混じる
都会という海での生活。
その真っ只中で
この歌を聴き、
私は歌をうたっていくことを
決意しました。
故郷で形作られた自分を
嫌悪していた私は
東京で新しい自分を作り出そうと、
過去を否定するようになりました。
同時に、ボブディランへの強い憧れ。
この人は政治的なイメージが
強いのですが、
このタンブリングマンのように、
心の奥の暗闇を表現することに
とても長けています。
これは孤独の歌だ
似てる
自分と同じじゃないか
私はディランを
そんなふうに好きになったのです。
子供の頃からずっと感じていた疎外感。
自分はよそ者だという感覚。
これは田舎にいても、
都会に来ても、
結局変わらないことに
やがて気がつき、
それを受け入れていく
生き方に変わるのですが、
彼の歌は今でも、
「俺も同じだよ」と
「だから安心しな」と
そう言ってくれているような気がします。
そして、そんな私の音楽活動は、
社会に反抗するロックシンガーの
スタンスを借りて、
自分の過去を否定しながら
孤独であり続けるものになりました。
40歳を過ぎて水墨画のほうへ
新たに舵を切るまで、
日の目を見ることもなく
費やしたその年月は20年。
その過去にこだわること、
その過去を否定することで、
他人の痛みに寄り添えると
ずっと勘違いをしていたのです。
折れてはまた治しながら、
消えぬ憎しみを支えにやり続けて、
ある日ふと自分を鏡に写すと、
そこにいる長髪の男は、
何も持っていませんでした。
ただ、その活動を通して、
私のことをわかってくれる友人達に
出会ったこと。
それは今でも私の誇りです。
けれど私がアーティストとして
手に入れたいものは、
「play a song for me
僕のために歌ってよ」
でした。
私から頼むのでなく、
私が歌ってやれる存在になる
過去に執着しながら、
負けていた自分をかばうだけの歌。
そんな私の音楽活動は当然、
それにはなれなかったのです。
水墨画との出会い〜初めて評価された芸術作品
自分のやりたい、
「表現する」
ということ。
それをするためには、
歌に固執していてはダメだと思っていました。
「歌」には先ほど話したようなことが
軸になってこびりついているので、
何かそれ以外のことをやる必要が
あったのです。
自分のだめさに気づいて
それを認めるしかなかったこと
自分は何も持たないと
改めて思い知ったこと
大切なものを失ったこと
こういった自責の念が荒波のように
ほぼ同時にやってきてました。
その波に飲み込まれないように選んだ舟が、
「水墨画」でした。
元々絵を描くことが好きだったので、
もう一つやるとしたら
絵かなという感じでした。
音楽活動を停止する数年前に、
ボイストレーニングを一度受けたことがあり、
習うことの重要性は
遅ればせながら理解していたので、
今回は独学を捨てて、
初めから教室に通いました。
そしてその努力の末、芸術家として、
生まれて初めての評価を受け、
やっと「自分の作品」を
世に出すことができたことで、
私は自信を取り戻し、
再び舟を漕ぎ出せたのです。
過去の痛みは自分を救ってくれます。
自分を成長させてくれます。
そのままの形で持ち続けていくものではない
のです。
それができた時、スタートラインは
もう遥か彼方にありました。
不器用にゆらゆらと漂いながら、
歳月に軋んできた私の孤舟ですが、
ようやく人生という暗い海に
火を灯せるようになりました。
もっともっと自分を高めながら、
この海を漕ぎ切ってみせます。
そして私の精一杯伸ばした手が届く場所を、
その灯火で照らしていきます。
私は、
「好きになってくれる人の為に
走り回るだけで人生は充分に忙しい」
ということを知りました。
自分を嫌う人に心を奪われて、
自分を好きでいてくれる人のことを
忘れてしまう
こんな寂しい話はないということを。
人生で得たものは全て、
私自身を成長させて
作品に繋がってゆきます。
いいことも悪いことも全てが、
私を成長させていきます。
これまで私と出会ってくれて、
私になにかを教えてくれた人、
私を好きになってくれた人達、
逆に私に痛みを教えてくれた人に
心から感謝しています。
この文章をここまで書いてみて、
自分を改めて振り返ることができました。
忘れていたこと。
忘れてはいけないことがありました。
なにより最後まで読んでくれて
ありがとうございました。
本当に嬉しいです。
私のことを、
あなたに話せて良かったです。