“生きる”を思い出した日。──静けさが包んだ、ひとりの夜

ただ流れていった毎日

出版社に勤めて10年。

今年で36歳になった。
女性編集者として、
常に締切と人の間を縫うように働いている。
飲み会では場を壊さないように気を遣い、
笑顔を絶やさないようにしている。

一見、完璧に見えるらしい。
だけど──
最近、自分の“音”がまったく聞こえない。

朝、目覚ましに起こされて、
顔を作って、電車に揺られ、メールを打ち、
夜、疲れて帰って、
テレビをつけたまま寝落ちする。

付き合っていた人とも、先月別れた。
たまに連絡は来るけれど、
もう心は戻らない。

そんなある晩、ふと、
亡くなった祖母のことを
思い出した。

忘れていた「静けさ」の記憶

おばあちゃんの家は
町のはずれにある平屋だった。

仏間には墨の絵がかかっていて、
そこに座って麦茶を飲んだ夏。

あの静けさを、どこに置いてきたんだろう──。

たしかにそこには”自分”があった。

飲み会の帰り道。
イヤホンをしたまま
賑やかな街の灯りの中を歩きながら、
彼女はふと立ち止まり、目頭が熱くなった。

……なんで泣いてるのか、わからなかった。

墨の絵との出会い

その夜。

眠れずにInstagramを眺めていたとき、
ふいに目に飛び込んできた
一枚の絵があった。

墨だけで描かれた豹の絵。
孤高で、でもどこか傷ついていて、
それでも生命を感じる優しい絵。

不思議だった。

豹ばかりではなく、景色や花や鳥などもあり、
投稿された絵は孤高で現代的だった。

それなのになぜか祖母の家の
床の間を思い出した。
水墨画といえば掛け軸のイメージだけど、
シックな額縁に入れられたその墨の絵が
どこか懐かしかった。

この絵を描いている人は誰だろう?

作家のホームページを開くと、
こう書かれていた。

誰かのためじゃなく、自分のために

「喧騒から静寂へ」

自分のリズムで、
誰とも群れずに
旅をするように生きている作家の姿。

派手じゃない。
ただそこには強い静けさがあった。

自分と似たような感覚の人に思えた。

そのまま、メールレターに登録してみた。

静けさに会いに行く

届いたのは、何通かの便り。
それから、展覧会の案内だった。
年に数回だけ、
招待制の個展を開いているという。

場所は、とある町の古民家。

その都度、1日か2日だけ開催され、
絵の購入はその場、
もしくは期間限定でオンライン販売。

誰か誘おうかとも思ったけど、
むしろ、
“1人で行ってもいい”場所な気がして、
それがなんとなく安心できた。

その日、私は一人で個展に足を運んだ。

絵の中の自分

古民家の引き戸を開けた瞬間、
ひんやりした空気と、
墨の世界に包まれる。

直接原画を見るのと、
ネットで見るのとではまるで違う。
絵がさらに生きて見える。
それにやっぱり、現代アートって感じで
古臭い感じがしない絵ばかりだった。

墨の絵なのに仏壇には似合わなそうだったな。笑

やがてある一枚の前で、
私は足を止めた。

──静けさのなかに生きる黒豹と、
そのそばに咲く一輪の花。

墨の濃淡だけで描かれた、黒豹は
主張しすぎず、ただ静かに、生きていた。
傷ついて孤独を抱えているように見えた。
そしてそれを一輪の花が優しく包んでいる。
そんな印象だった。

今の自分のことを描いているようだった。

なぜか祖母の面影を思い出した。

「静けさと孤独を知ってる人だけが、
描ける絵だと思った。」

ふと、別れた人のことが頭に浮かぶ。
あれは「誰かといる自分」を
保つための関係だったのかもしれない。

この静かな空間の中で、
私はようやく気づいたんです。

今、この静けさを選ぶ

作家は、ただ黙って絵のそばにいた。
私は声をかけ、

「……この絵、
ずっと見ていたくなります。」

そして、その絵を予約した。

あとからオンラインでも買えたらしいけど、
今この場で“選ぶ”ことが、
自分にとって大事だった。

誰かのためじゃない。
飾るためでも、見せるためでもない。

ただ、自分の“静けさ”に還るための絵。

自分の静けさを、
そして”生きる”を
取り戻すための絵だった。

「ひとり」、満ちていく夜

一週間後。
丁寧に包まれた絵が届いた。

その日、私は
会社の飲み会の誘いを断って、
まっすぐ帰宅した。
グラスを片手に、絵の前に座る。

「”ひとり”って、
悪いことじゃないのかもしれない。
静けさの中に、自分の音が戻ってくる。」

時にはこういう時間が
必要なのかもしれない。

──また明日、頑張ろう。

でも今日は、
自分に戻る夜にしよう。

物語の続きへ|墨の香る場所から

____今でも、ときどき便りが届く。

墨の余白から、静けさを思い出させてくれる小さな手紙。
あれがずっと私の心の灯火となっている。

もし、あなたも「静けさ」を
どこかに置いてきた気がしていたなら____
この物語の続きを、
そっと受け取ってみてください。

墨の香る場所から

ざわつく日々に、墨の余白と灯火を。

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