最大震度7。忘れられない2011年3月11日〜今、東日本大震災を想う

その日は、忘れられない一日になりました。

あれからもう10年以上。

3月11日(金) 14時46分18.1秒。
東日本各地で発生した
大地震に伴う火災や大津波、
そして福島第一原子力発電所での
メルトダウンによる放射線放出。

その日のことはいまだに鮮明に覚えています。

発生当時の記憶〜テレビで見た惨劇

その日、電話回線はパンクして、
東京の職場内は騒然としていました。

避難時に見た決して遠くない場所で
もくもくとあがる黒煙。
余震に揺れる職場の7階建の倉庫。
遠く離れた東京ですら
命の危険を感じたほどの揺れ。

そしてやっと繋がった会津の家族への電話。
その無事に胸を撫で下ろした私は、
まだ東北海岸沿いの惨状を
知りませんでした

仕事を早めに上がって
3時間かけて歩いて帰宅。

つけたテレビの映像に驚愕しました。

繰り返し流されていた、
津波に飲み込まれていく知らない街の映像。
それを見ながら、
なすすべのない人の無力さ
私はうちひしがれてしまいました。

そして一人暮らしの暗い部屋で
一晩中眠れずに
その映像を見続けました。

胸が痛くても目を逸らせませんでした。

外側からテレビで見ている
私がこうなのだから、
直面した人達の恐怖、
悲しみはどれほどのものだったのか。

簡単に推し量れるようなものでは
ありません。

自分の無力さを思い知ったその後の日々

それでも東京では通常通り仕事は続き、
街の明かりが減少したり、
物資の不足などの不便さはあっても、
なんとか暮らしは立てられました。

テレビ画面やネットをへだてて
その向こうの惨劇は
まるで別世界のようでした。

政治家は頼りなく、
時の首相はなお頼りなく、
緊急時にあからさまに本音を曝け出しました。

その隙に英雄気取りの有名人が騒ぎ立て、
金持ちも参入し、
世相がボランティアや募金は
善か偽善かと論じる。

まさに大惨事のあとの混沌とした世界が、
そこに広がっていたのです。

私はそれ以上に無力でした。
それ以上に何もできませんでした。

国の行く末などよりも、
この震災を受けて傷ついた人が
1人でも救われることだけを願うだけでした。

それ以外の望みはありませんでした。

あの日の傷は今もそこかしこ疼いている

この震災が奪っていったもの。

多くの人が自らの命を失い、
多くの人が愛する人を失い、
多くの人が愛する故郷を失い、
そしてまた、痛みが癒えぬ時間の中で、
さらに自分の命を失いました。

避難場所でただ救いを待つ人々。
どこか他人事のように映し出された映像。

被災した人々は、仲間と、
それから心ある部外者と手を取り、
復興を続けてきました。

見事に復興を遂げましたと、
もうすっかり良くなったかのような
そんな空気が、他の地域では
呑気に漂っています。

しかし、それは幻想です。

あれから歳月は過ぎ去りましたが、
人の傷跡は薄っぺらい流行り言葉のようには
過ぎ去ってくれません。

それぞれがみな、
失った友や家族、親戚、
恋人、師の笑顔を、
その胸の中から追い出せないのです。
もう悲しくなりたくないから、
もう消えてくれと願っても。

こっちは何もしていないのに、と。

ひとりひとりの胸には、
失う前に伝えたい言葉
あったかもしれません。
命を無くす前に謝りたいこと
あったかもしれません。

歳月を重ね、新しいことが起き、
古い記憶になっていくと、
それだけ、当事者ではない側の
「気持ち」が薄れていくのは常ですし、
それは 私自身も同じです。

ならばなおのこと、
みな自分の人生で手一杯だとしても、
3.11というこの日くらいは、
そんな傷を抱えた見知らぬ他人に
想いを馳せてみても
バチは当たらないはずです。

同じ日本人として他人が出来る唯一のこと

さっき、横断歩道であなたとすれ違った人は、
その傷跡を抱えた人かもしれません。

震災を逃れ、あなたの街に
引っ越してきた人
かもしれません。

同じ電車内でひとり目を閉じている人は、
助けられなかったことを今でもずっと、
悔やみ続けている
かもしれません。

しかし、私達にそれを
理解するすべはありません。
できるわけがありません。

それでももし、
私たちにできることがあるとしたら、

私たち人間は、決して折れない
諦めない心を持ち合わせていることと、
何度でも強く立ち上がれるということを、
迷わずに信じ切ることではないでしょうか。

あなたは大丈夫

何がわかるんだと言われようが、
私はそう信じ切ります。

あの倒れなかった奇跡の一本松のように、
あなたは強いのだと。