【孤独の歌】自作の歌詞とその背景を綴る第8話〜オールドマントーキング

たった一度だけライブに来てくれた父

この歌を書いた20歳の頃に住んでいたアパートは、
環状7号線、いわゆる大きな国道沿いにあり、
夜中でもトラックがガンガン走り続けていました。

私は免許は持っていましたが、東京は電車もあるし、お金もかかるし、
そもそも興味もなく、
車を運転するつもりはありませんでした。

ただ、部屋で毎日車の音を聞いていたら、
トラックドライバーを主人公とした歌を作りたくなり、
そこに自分の父親を当てはめて生まれたのが、
この歌だったのです。

私は学生時代に忍耐力をつけて神経が図太くなったというか、
凍りついたというか、
元々の性格もあるのでしょうが、

都会の一人暮らしが寂しい

こういった感情はほとんどありませんでした。
それどころか、出会う人を疑い信じようとせず、
優しさや気遣いは、



という

自分を守るためなら人を傷つけるのは


という

なんとも寂しい信念で生きていました。

夜、眠れなくなるのは、ほとんどが自分の未来への不安と、
少しのことで湧き上がる他人への怒りと、
みんな私を馬鹿にしている
という、被害妄想からでした。

まだ実家にいた頃、父は食卓で時々、
東京の話をしてくれました。
父親も数年、東京にいたことがあり、
その時の苦労や、故郷に戻ってきた時のまた別の苦労について教えてくれました。

今すぐにでもこの退屈な田舎を出たい
そんな私には強く響きませんでしたが、
東京に出てきて今、なぜ私はこんなにもひとりぼっちなのかとその理由を考えた時、
記憶の奥底にしまってあったいくつかの言葉が、
この歌を書く際によみがえったのです。

その時私は自分がなぜこんな歌詞を書くのか、
不思議で仕方ありませんでした。
今ならばまだわかりますが、
当時はその教えを認めたくありませんでしたから。

そしてその後も自分の気の利かなさ、
他人への苛立ち憎しみ、決めつけ、疑いにふと冷静になるたびに、
この歌を思い出すようになりました。
ひねくれ者の私は、厳格だった父親の教えを、
自分の書いた歌を通して学んできたのです。

そんな父は、私が縁あって故郷でライブをした時に
たった一度だけ観に来てくれたことがあります。
この歌を歌うのが気恥ずかしかったのを覚えています。

父はこの歌の歌詞について、
ひとつだけ納得がいかない箇所があるそうです。
おそらくそれは私が父親にならないと
わからないことなのかもしれません。


余談ですが、また不思議なことに
この歌を書いた24年後に私は運転職に就くことになります。
この歌の出だしのように。

父親にはなっていませんけどね。

オールドマントーキング

一日中ハンドルを握って街を走り続け
家に着く頃にはもう子供達は眠りについている
妻はただ日々の苦しさを独り言のようにして
男は何も答えず用意された食事をとる

苛ついて生きていた日々のことを思い出しても
もう懐かしむことはなく そこに未来もなく
ただ背負いこんだものを守るために働き続け
明日また起き上がるために布団に潜り込む

自分の人生を疑い出したらきりがない
そして子供達の道を狭めることはない
諦めなければならないことに気づいた悲しさを
出ていく息子に低く重く語った


生きていれば辛いことなんて何度だってある
耐え続けるうちに心はぼろぼろになる
大切なのは鋼のように鍛え上げることじゃなく
誰もが同じように傷ついていると知ること

どれだけ必死に良くしていこうと努めても
ほんの少し気を抜いただけであっさりと放り出される
覚えていて欲しいのはあの日振り上げた拳が
お前だけを痛めつけたわけではないということ

自分の人生を疑い出したらきりがない
そして子供達の道を狭めることはない
そう簡単に誰も応えてはくれない厳しさを
出ていく息子に低く重く語った


新しく人生を切り開こうと僕は
故郷から遠く離れた街に暮らしながら
時にどうしたらいいのかわからなくなってしまう
あなたの辿った道を知りたくなることがある

久しぶりに電話に出たあなたの声は
まるで別人のように優しく温かく聞こえた
相変わらず傷口をえぐるような生活だ
苦しいけれど決して負けているわけじゃないよ

自分の人生を疑い出したらきりがない
そして子供達の道を狭めることはない
どんなことがあっても生きていかなければならないと
出ていく息子に低く重く語った